10頭という犬が消えていった。セピアの母犬も犠牲になったものと思われる。そして今は山犬は下甑の山からほぼ完全に姿を消してしまったのである。
 セピアの最期にも触れておきたい。いたずらしている子供たちに、塀を飛び越えてほえ掛かったセピアは、つながれている鎖が短く、首吊り状態になって死んでしまった。
 「おかの野犬」で紹介されている「大和」はセピアの子供で、甑島には今、セピアの三代目の雌2
匹が昌範氏の元に残っているのみである。銅像と薩摩犬の物語は下をご覧下さい。

(99/5/9 matu up)

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4月、手打診療所の遠遊会の写真です。(海の幸、美味そうでんな!!)

 

 

 

 

 

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  島の忠犬ハチ公?

 

 甑の野犬
 全国には少なからず犬の銅像があるものと思われる。忠犬ハチ公や上野の西郷さんの銅像にも犬が一緒である。秋田犬や土佐犬もあるに違いない。我が鹿児島県にも少なくとも二カ所にある。一つは東郷町にあり、あとの一カ所は下甑につい先日できたばかりで、童話作家・椋鳩十の「孤島の野犬」の記念碑である。
 この二つの銅像は実は深いつながりがある。早い話、東郷町の「薩摩犬の銅像」のモデルになった犬は甑島の犬なのである。このことはまた後で説明しよう。
 ここ下甑は「孤島の野犬」の舞台なのである。椋氏の作品には動物を書いたものが多く、特に犬が多い。甑の犬を書いたものは「孤島の野犬」だけと思っていたら、「おかの野犬」もあった。椋鳩十動物童話集の第13巻である。
 話は14年前に溯る。隣村の昌徳氏が腹膜炎から腸閉塞を起こして手術した。かなりの重症で家族は心配していたが、特に小学校の6年だった一人娘さんは祈るように付き添っていた。そんなある日、手打診療所から家に帰る途中、山の中で小さな子犬を拾った。当時、甑の山中にまだ沢山いた山犬の子供だった。母親に何かがあったのか、子犬はかなり弱っていたが、娘さんはこの犬を助けたらお父さんの命が助かるかもしれないと、家に連れて帰って大事に育てることにした。
 その後、昌徳さんはすっかり元気になって退院していった。村で一番の網元とあって、いつもの忙しい仕事が待っていたが、もともと犬好きの昌徳さんは、例の子犬にセピアという名を付けてかわいがった。あまり大きくはなく、精悍で賢い犬だったが、山犬特有の激しい気性は失われていなかった。不審な人には容赦なくほえたてていたし、いたずらの子供たちにも飛びかかって、2度ほどかみついたこともあった。
 それからしばらくして獣医のH氏が訪ねてきた。H氏は大正時代に絶滅したと言われる幻の薩摩犬を探していたのであったが、セピアを一目見るなり震えたという。内地の薩摩犬はかなりの交配が進み、純血種とはほど遠い雑種になっている。だが、セピアは今までみたこともない特徴を持っていた。これこそ薩摩犬だ。海を隔てられ、しかも人に飼われることを拒否してきた山犬は本来の姿を保ってきたのだ。
 H氏との出会いは幸運だった。セピアが貴重な犬であると分かって、子孫を増やすことになったのである。
 セピアがさかりがつくと、昌徳氏は数日山に帰すことにしていた。するとセピアは山犬と交尾を終えて返ってきたのである。順調に増えた子孫は、東郷町にも送られ、藤島天神の梅を記念して「うめ」と命名されたのが東郷町の薩摩犬の銅像のモデルなのである。
 昭和50年代半ばまでは下甑の山には沢山の山犬の群がいて、夕方から深夜になると、我が物顔に村を回遊していた。山犬たちは、普通の飼い犬とは全く違っていた。リーダーがいて、人を人と思わず、アフリカの草原を群をなして移動している動物たちの姿と似ていた。人を襲ったという話は聞いたことはなかった。しかし、特に内地から転勤してきた人たちは山犬をおそれていた。
「何とかしてほしい。夜は怖くて、買い物にもいけない。」
 そんな苦情に所轄の保健所と村役場の民生課は野犬狩りが年中行事であった。毎年、何十頭という犬が消えていった。セピアの母犬も犠牲になったものと思われる。そして今は山犬は下甑の山からほぼ完全に姿を消してしまったのである。
 セピアの最期にも触れておきたい。いたずらしている子供たちに、塀を飛び越えてほえ掛かったセピアは、つながれている鎖が短く、首吊り状態になって死んでしまった。  甑島には今、昌徳氏の元に2匹の雌犬がのこっているのみである。